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TTC アシュラム編 #10 「カルマ(因果応報)」「ブラフマン」講義 day4


長岡・小千谷・柏崎のヨガ教室
&RYT200資格スクール yogatha(ヨガッサ)
ヨガインストラクターのミーラ美樹です。
 @yogathajp

 

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記事カテゴリ:インド・ヨガTTC 2010


 

 

1月14日 day4-1

 

昨夜から酷い腹痛が続く。
なぜこんなところに来てまで、こんな思いをしなければならないのか。

私は停電中の真っ暗なトイレから一歩も動けずに夜明けを迎えた。

 

寝不足で頭も回らず食事も喉を通らない。
毎食提供されるのは、ラジャスを抑えるためスパイスを控えた薄味での南インドカレー。絵的にはごちゃまぜのぐちゃぐちゃ。今の私にはオエー。

 

「弱ったときはやっぱりお粥よね!」ということでアシュラムのキッチンに出向くことに。

スタッフは英語が通じず、マラヤラム語(ケララの州語)しか話さない。身振り手振りで説明してご飯とお湯をいただく。しかし煮詰めてもいない塩さえ入らないお粥を目の前に、食欲が刺激されることはなかった。

 

このように体調を崩す日本人は私だけではなかった。皆、慣れない水と食事、気候、忙しすぎる毎日にくたばっていた。Aさんは白い大便が出たため抗生物質が必要となり病院送りになった。下痢の症状において、おかしな色の便で出たら細菌所以であるという。

 

私はというと、いよいよ日本から持参したカロリーメイトや味噌汁も底をついた。何も食べられない状況になった。アシュラムの外にも出られず食料も調達できない中、ついに日本に電話した。

 

レトルトのお粥送って!!

 

 

家族にはできるだけ元気に振る舞ったが、食料供給を求めるほどの悲惨な状態に驚いていた。いったい南インドまでどのくらいの日数がかかるのだろう。それでも数日間辛抱すればまともな食事にありつける!という希望は私を元気にさせた。

 

 

 

それにしても下痢の原因はなんだろう。
たぶん これ↓

 

インド デリー サモサ

 

サモサです。
アシュラムに入る当日、デリー空港で買ったサモサの残りを翌日まで持ち越して食べたのだ。一応匂いは確認したけれど、おそらく大した添加物が入っていないサモサを、暑すぎるこの気候の中放置した結果だ。

 

 

 

 

6:00 サットサン
「因果(カルマ)とは」

 

日本語でも「因果応報」という言葉ある。
自分で撒いた種は自分で刈り取るということだが、この因果(カルマ)には3種類あるという。

①過去のカルマ
 サンチタカルマ

②現在、今この瞬間につくっているカルマ
 プララブッダカルマ

③未来のカルマ
 アーガミカルマ

 

 

 

本日の説法

何らかの反応として行った自らの行動はカルマとして返ってくる。

重要なのは、それが単なる反応(反射的で無知な行動)なのか、意図的な行動なのかだ。
自らの今の意識を確認し行動に移しなさい。

 

その他、集団的カルマとしての例だと、現在の君たちの国家と国民は将来のグループカルマを形成しうる。随って国家やその土地として背負うカルマもある。

 

 

生と死にかかわる大事な話をしよう。
私たちはこのまやかしの世界において、叡智なしにエゴによって物事を認識したとき、それは相応のカルマをつくる。故に、私たちはまた輪廻しカルマを生みながら生き続けてしまう。

 

 

 

 

14:00
哲学
担当:マハデヴァナンダ ジ

 

概念とは思考と言葉を超えたものである。ブラフマン(ここでは真実という概念)とは無限、無因果、永遠の至高現実の本質。対してイーシュワラとはマーヤー(幻)を伴ったこの世界において認識される、人間にとって受け入れやすいブラフマンのこと、神の象徴。

宗教的闘争が起こる私たちの世界において、神の違いで争うことはイーシュワラとして争っているだけでその背後に存在するブラフマンを理解していない。結局、ジーザスもアッラーもブッダでも辿り着くのはブラフマンである。

随って、私たちは自分に投影されたモノの見方をしており、同じモノでも見方が変わってしまうということだ。これを真実とはいわない。

 

 

 

 

本日の感想

 

スワミジの言葉を受けて。
たとえばイスラエル東部にある都市エルサレムでいえば、一神教であるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教各々の聖地である。19世紀後半には、ヨーロッパでシオニズム※が高まりを見せ、パレスチナへのユダヤ人の移住が急増し、特に聖地エルサレムではユダヤ人が多数派を占めるようになっていた。
※ユダヤ教においてイスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しようという運動

 

それから聖地をめぐる闘争に度々発展するが、そもそもイスラエルとはヘブライ語で「平和の町」を意味するという。なんだこの矛盾は。

 

我が国はどうだ。
神と定義づけされる対象が一人(ひとつ)ではないのが、世界でも珍しい神道が生活に染みついている。日本人にはなじみがある「やおよろずの神」。

日本の自由さと多様性、そして寛容さの一端は神道なのか?(神道は宗教か否か、という話は置いておきます)

 

なんども語っているが私は無宗教である。
随って、だれがどの神を信じようが、なにを信仰しようが構わない。家系で受け継ぐこともあれば、改宗したり新たに入信することもあるだろう。日本には各々にフィットしたものを選ぶ自由と安全があるのだ。

 

日本はまだまだ単一民族で無宗教者が多いため、宗教闘争が不活発な平和国家だということ。

日本人は、生まれたときは神道、結婚式にはキリスト教、死ぬときは仏教。つまり子供が生まれると初宮参りや七五三で神社に参り、結婚式はチャペルで神父様に取り計らっていただき讃美歌。そしてお葬式ではお寺さんにお経をあげていただきお墓へGO!

 

この自由を享受できるのは、私がたまたま(実は過去のカルマの結果として)日本人として生まれただけの話。自分の暮らしが安定していれば世界は関係ないや、というのは利己的なのだろう。

海外に出るほどこの国に生まれたことを感謝せねばならないと気づく。

 

 

 

最後に、一般的な文化風習において、もっともイーシュワラに囚われずブラフマンを体現してるのは日本人だったりしてね。

けれど上記の宗教上のちゃんぽん行為は意識的な選択ではなく、当たり前の行事として行っている家庭が圧倒的に多いでしょう。スワミジに言わせれば「まだまだ」かしらね?

om shanti,