長岡・小千谷・柏崎のヨガ教室
&RYT200資格スクール yogatha(ヨガッサ)
ヨガインストラクターのミーラ美樹です。
@yogathajp
突然の訃報、三浦春馬くんの自死について、昨日のTT(ヨガ指導者養成講座)でも話題となりました。
みなそれぞれ驚きと哀しみ、そしてなぜ?という想像するに及ばない疑問を述べておられました。
私自身は、イケメンで爽やかな青年だな、という印象で特別ファンという訳ではありませんでしたが、悲しみと同時に混乱しました。
このように、彼が亡くなってもなお、社会と人々に及ぼす影響というのは計り知れません。人々の意識の振れ幅が多大でイーシュワラ(全体宇宙)への影響を鑑みると、彼は何某かの役割を背負ってこの世に生まれてきたのかもしれません。
ヨーガの哲学においては、私たちは肉体的な死をもってその仮そめの器を手放し、今世でのカルマを引き継いでまたサムサーラ(輪廻)を巡り別の人生に転生すると考えられています。
ですから、あくまで肉体的な死であって、霊的に死は存在しません。
肉体を構成する質の源マーヤーは消えても、自己の本質アートマン=すべての根源ブラフマンは常にそこに在ります。
ゆえに私たちはこの世に生まれる前から存在し、亡くなっても変わらず在るのです。
しかし、私たちはマーヤーの力を伴い、肉体や考えを装ってこの世界に現れるため、「自分とは何者か」についての真実の知識が覆い隠されてしまっています。
イーシュワラの中ではすべては移ろい変わり続け滅びてはまた生まれる、ただそれだけなのに、
肉体や考えを扱う行い手「個人」こそが自分であるという強い観念は、「自分(の意識・アートマン)こそが全体である」と想うことを困難にさせます。
自分の本質を見失った結果「個人」としての私は、人や物、役割に執着し、喜怒哀楽に躍らされ、時に苦悩してしまう。
私はTT受講生のみなさんと同じように哲学を学んでいますが、今日ヴェーダーンタのよっしい先生の講義を受け、三浦くんにもヴェーダを学ぶ機会があればよかったのに、と思わざるを得ません。
「死」というのはある日突然訪れるのではないようです。いわば毎日毎秒が「死」に向かって一歩ずつ近づいている。それが「生」あるものの宿命。しかし、
人生は限りがあるからこそ儚くも尊いのです。
マーヤーつまり物質を構成する見えているものは幻だとよく教えられるし、それを仏教では諸行無常というけれども、世界は儚く無意味だとニヒリズムに苛まれるんでなく、有限だからこそ大切にしがいがあるんじゃないかな。
とはいえ有限なこの人生において、私たちは価値あるものを手に入れたくて、存在に値する何者かになりたくて、頑張りすぎては息苦しくてもがく。幸せになりたくてアルタ(安全)やカーマ(喜び)を求めても満たされず、ふと虚しくなってしまう。そんな時は誰しもあるでしょう。
みんな、生きているからこそ、その意味や理由が欲しいのです。
もしもそれがわからなくて、たとえあなたが消えてしまいたくても、あなたに生きていてほしい人は必ずいます。私たちが今ここに存在すること自体に意味があり、イーシュワラの理において無意味かつ無秩序に存在するものなどないのですから。
そんな自分についての知識と世界についての知識、その学びがヴェーダーンタです。
ところで・・・
私はこのヴェーダを学んでいるものの、自分を個人だと見る癖が強くこびり付いています。自分は全体であるというイーシュワラやブラフマンの理解、モークシャへの道は遠く、役割としての自分から離れられません。
なぜなら、今そこで寝ている我が子を失いたくないからです。
しかしよっしい先生は仰ってくれました。
幼い我が子に対し母親という役割を全うするのは大切なこと。でもいつかはその役割も終わること。役割への執着を必要なときに手放せばいいのだということ。
母という役割の自分、また生まれ変わっても会いたいという執着を少しでも手放すには、今回の生あるうちに悔いなく愛すればばいいんだ。
そう納得しました。
そして三浦くんへの想い。
なぜ彼が死を選んでしまったのか。それはたとえ遺書が明らかにされても、そこに記された言葉が本心だったかさえわかりません。彼のみぞ知ること。
死の真相を追求するような報道はありますが、私たちはただ自分を納得させるための理由が欲しいだけではないでしょうか。この世界では自分が知るに及ばぬことも受け入れなければならない、そう理解する必要があります。
だから、想い、祈るんです。
祈るというのも尊い行いです。
どうか彼のために祈り、自分を癒すことを第一にしてください。
今、三浦春馬さんの魂が安らかでありますように。
そちらで、自分のままでくつろいで、
笑顔でいられますように。
om shantih shantih shantih.